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2011ドキュメンタリー・フォトグラフィーに関する覚書:M氏との会話

祈り
M 氏
こういうカメラアイには明らかに撮り手の酔いがあると思います。きつい言い方になりますが、この手の写真にはもっと認識的な裸眼が必要ではないでしょうか。社会性=カメラアイではないと思うのです。
S
もう少し話を深めていきたいと思うんですが、「認識的な裸眼」というのは、写真が表面的だということと関係がありますか?社会性の部分もいまいちつかめきれずにいます。ぼくはこの写真についてはこの人を個人として捉えることを目標にしていて、1枚で完結させるのが難しいと感じています。
M 氏
最初に写真を見たときにはもの凄い驚きを感じました。他人の前でここまで自分をさらせるかという驚きです。教会ではなく自分の部屋の中で祈ることは、極めて 個人的かつ内面的なものだという認識があったからです。また、ここまでコミュニケーションを取れるということに感嘆しました。
けれども、写真を見ているうちに驚きが妙な違和感に変わって行きました。それは、コミュニケーションは濃密に映っているが、ヒト(被写体の人格)が映っては いないのではないかという疑念を含む思いでした。嘆きとも見えるフォルムに依存しすぎたのだろうか、コミュニケーションに安住し過ぎているのではないだろうか。
ボクは、それを『酔い』と書きました。そして、コミュニケーションをいったん括弧に入れること、意識的に一度捨て去ること、被写体を新たに見つめ直すこと、それを『認識的な裸眼』と表現しました。
続いて『社会性』について書きます。
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他者の苦痛へのまなざしが主題である限り、「われわれ」ということばは自明のものとして使われてはならない。
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●スーザン・ソンタグ 『他者の苦痛へのまなざし』より みすず書房刊
ボクの考える『社会性』とは、ソンタグのいう「われわれ」という言葉を使わせようとするものの考え方を指します。言 い換えれば、ヒトとヒトとのあいだに横たわる相違(亀裂と言ってよいかもしれません)を隠そうとするセンチメンタリズムの強烈な誘惑です。但し、SATOKI さんがこの誘惑に陥っているという意味ではありません。写真を拝見していると寧ろそこから如何に逃れようかと戦っていらっしゃるのでは と推測しています。
S
言われること、完全に理解できていないかもしれませんが感じた範囲で返事をします。何をどう撮るのか、なにを伝えたいのかというところに結局尽きるのかと思います。
コミュニケーションを重ねて、プライベートな空間で、プライベートな瞬間を撮っても被写体の人格がスポっと抜けることがあるというのは言われてなるほどと思いました。何を撮ってなにを伝えたいのかが、詰めきれてない写真なのかもしれません。
しばらく交流する中で、この女性が戦場とも言われた想像を超える区域で生まれ育ってきており、母や弟らが薬やアルコールを常用しているようなところで、宗教で自分を守っているというのがわかりました。それで宗教が見える彼女の姿を写真にしたいと考えたのが意図でした。
では次にどう撮ってみるのかというと難しいです。宗教的活動や行為は自我とは正反対になるので。丁度座禅をしている人を撮るのに似ているかもしれません。
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他者の苦痛へのまなざしが主題である限り、「われわれ」ということばは自明のものとして使われてはならない。
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社会性との関わりはまだ理解不足なんですが、ドキュメンタリー系の写真だとその背景を相当理解していないと自分がなにを撮っているのかわからなくなる、ということと関係があるのかなと思います。それはドキュメンタリー系写真に対する根本的な姿勢に関わるかもしれません。
自分が共感をおぼえるときしか撮らない、撮れないという点です。そこでたとえ相違や亀裂があっても自分の視点で理解した上で撮ります。(理解できないものは撮れません)。
写真は極めて主観的な活動なので、とすれば、視点を深めるしかないということになりますね。きっと数日後など後でなにかふっと理解できるかもしれません。
M 氏
ド キュメンタリー写真は、部外者が部外者本人とは異なる状況にいる被写体に関心を持つことから始まると言っても間違いではないと思います。円の外側から円 の内部を覗くようなものです。つまり、関心は、部外者であるが故に持てる関心です。ある状況に置かれた当事者同士のドキュメンタリー写真というのはないに 等しいのではないでしょうか。ボクは寡聞にして知りません。つまり、関心とは覗き込む余裕と言い換えても良いのではないかと思います。当然その視線のベク トルは上から目線というものに近くなると思われます。
特 に被写体が悲惨な状況にあるとき、その関心は、同情から始まり、憤り、哀しみの共有、更には自身の責任感や無力感などあらゆる道徳的、倫理的、場合に よっては政治的な要素を含む思想や感情に彩られます。具体的な「社会性」の出現です。(実は、円の外側にいるときから「社会性」は現れているはずです)そ れは、相手の立場や背景を更に深く理解し、状況を変えようとする行動にも繋がり得るでしょう。
し かし、そこで得た理解やコミュニケーションを「われわれ」として安易にくくってはならないというのがソンタグの言葉だと思います。そこには、容易には越 えられない深い溝があるのだと、その亀裂をただ見詰め続ける事しかできないのかもしれないのだと言っているのではないかと思います。
S
写真はフォトグラファーによる世界の視覚的なひとつの解釈だというのがぼくの写真活動の前提にあります。
当 事者によるドキュメンタリーと言えばまず Henryk Ross の Lodz Ghetto Album が思い浮かびます。あるいは Tony Vaccaro の第二次世界大戦の写真。ぼく自身の写真では妹の死のものが近いと思います。余裕(があるように見える)や目線というのは、写真を撮るという動作から生ま れた表面的な客観性からくるのだと思います。(もちろん悪い意味で当てはまる写真もたくさんあると思います)。
根本的にドキュメンタリー写真は部外者に対して伝えるもの、「円の外」の人へ向けられたフォトグラファーによるメッセージです。何を撮るのか、どう撮るのか、何を伝えるのか、フォトグラファーは意識的・無意識的に選択し決定していて、フォトグラファーの主観的なビジョンが反映されています。
問題はご指摘の通り、越えられない溝、亀裂の存在です。もっともぼくはそれが円の内外でだけで起きているとは思いません。人は他人はおろか自分自身すらよく 理解できません。自己の存在理由が結局わからないことと深く関係があるように思います。ぼくは人を撮り続けていますが、それはわからない自分自身の存在理 由を探しているのだと思っています。「社会性」は写真に一応の答えらしきものを与えてくれるでしょうが、それでは「われわれ」というくくりの中で完結して しまうことになるでしょうね。
貧困や飢餓など悲劇がドキュメンタリーの主題になった写真を見るとき、ぼくはずっとある違和感を感じてきました。ほとんどの写真が非常に定型化されていて人 が個人として捉えられていない。Salgado、Bruce Davidson、Nan Golden など素晴らしいフォトグラファーは人をまさに個人として撮影してきていると思います。ぼくはそこに自分が撮りたい写真があると思いました。貧困層向けの住宅に 住む人たちをシンボルとして捉えず、個人として一人一人時間をかけてコミュニケーションしながら丁寧に撮影していく。それを続けているうちに特別だと思っていた人たちは次第に普 通の人たちになっていき、その難しさに苦労しているところです。(特別な人を撮るよりも普通の人を撮るほうがはるかに難しいです)。
ところで越えられない溝、亀裂の存在が写真表現の中で無視されているのかというと、実はそうではないと思います。見る人にフォトグラファーによって示された ひとつの見方しかさせない写真は評価されない。多種多様に読むことのできる「開かれた」写真は、越えられない溝、亀裂の存在とその重要性にどこかでつな がっているような気がします。
M 氏
自分の認識が曖昧なまま明確な定義を持とうせずに、ドキュメンタリーという言葉をイメージ的に使っているかもしれません。
で は、定義しろと言われても難しく、取りあえず流通しているイメージに乗るほか今のところ術はありません。というのも極論すれば、スタジオでライティング しモノを撮ろうとも、モデルを演出しながらシャッターを切ろうとも、それは自己の肉体のドキュメンタリーと言えるかもしれないと思うからです。何故なら、 肉眼では決して捉えきれない時間をカメラが写している・・・どれほど、仕上げをイメージできている写真家であろうとも最後はカメラが吐き出した画に従う他 はない主客転倒のパラドックスがあるからです。カメラという機械(ブラックボックス)に依存せざるを得ない写真の宿命があるように思います。ひょっとする と写真を撮る行為そのものが、ドキュメンタリーの原点だという論も成り立つのではと思っています。
ご紹介頂いた二人の写真家については全く知りませんでした。機会を見つけて是非見てみようと思います。妹さんの死に関する写真は、最初に拝見したときから自画像だと理解しました。強い衝撃を受けたのは事実です。
世界の中に偶然居場所を与えられてしまった、自己の存在理由。
ボクも思春期以来、この問題にずっと悩まされて来ました。正直に言えば現在もその渦中にありますが、少し変化もあります。若い頃には、アプリオリに存在理由があるのだと思い込みそれを探す事に躍起になっていました。しかし、それは無いものねだりの自分探しであることがぼんやりと見えてきた事です。今では、あらゆる関係性の中にしかアイデンティティはないのだと思うようになってきています。
視 覚的な比喩を使うと、世界を鏡に映して見てその視線の木霊の一つ一つがアイデンティティを構成してくれる要素だと、言い換えれば、宇宙を含めて自分の外 にしか存在理由に答えてくれるものは無いであろうという思いです。他者との問題をボクはこの文脈で考えています。そういう意味では、SATOKI さんが写真を通して探している行為が痛いほど理解できます。
ただ、ボクの場合、世界を映そうとする鏡が写真であるよりも文字であり続けた事が大きな違いだと言えます。
内と外、そして、その境界にあるもの。前回ボクは円を持ち出してドキュメンタリーに即して説明しましたが、この図式は単にそこに留まるものではなく、内と外には任意の項が代入可能であり、その境界を探ることが内と外に代入した項を理解できる手がかりになるのだと考えています。「上から目線」と書いたことはその要素が間違いなくあるとは言え、いささかフライング気味でした。下からの目線、真っ直ぐな目線というものも当然あり得るはずです。
S
ソンタグの著作をざっと読みました。ソンタグの視点は「見る者」の視点であり「撮る者」の視点ではないと感じました。それは良い悪いの範疇ではなく、全く異なる視点であるということです。また「見る者」も「撮る者」もそれぞれが異なり、そもそもその間に共通認識にようなものを構築できるのかどうかもわかりません。ただ写真に限らず芸術は作家の手をいったん離れれば、見る者・観賞する者によって解釈は委ねられるものですね。
ドキュメンタリーの定義ですが、おっしゃる通りだと思います。写真はそこにいない人が写真家の目を通じて解釈された世界を見せる芸術であり、広義には全ての写真はドキュメンタリーであると言っていいのかもしれません。狭義にはある特定場所で起きたあるいは起きている出来事についての情報を視覚的に伝えるものといえると思います。これは解釈された世界を見せるということとは完全に一致するものではなく、その内部にあるといえるのではないでしょうか。
自己の存在理由を探していると言いましたが、ぼくも確固とした理由はなく関係性の中に現れるものだと思います。関係性は受身的なものだけではなく、自らの行動によっても変化構築されていくものなので、ぼくは写真活動を通して自分以外の人との関係を創りだすところ、その結果として写真を創りだすその行為の中に自己の存在理由やアイデンティティがあるように感じています。